決戦は水曜○時!~アイドルにのみ適用される言葉の可能性についての考察~ 「ももクロにも内と外はあるんだというちょっとした主張(1)」

なんちゃら論、だれそれ論みたいなものは、いつでもどこにでも溢れかえっている。そんな中でも、最近のトレンドはもっぱらアイドル論というもののようだ。アイドルに対して真面目な議論をしても許されるという風潮、これは一体いつごろから始まったのか分からない。正確な起源は分からない。

 

が、どうやら中森明夫氏の論考あたりからそんな空気感が漂い始めたらしいという線が濃厚のよう。以降、それぞれが自分の大好きなアイドルに対して数えきれないほどの議論を重ね、それらが統合され、また分化したのだろう。

 

ひとつに、アイドルという日本固有の文化を通じて、日本の社会を分析するような社会学的なものがあって興味深い。

 

ひとつに、アイドルについて語るんだからキュートな文体で書かなきゃね、というポップな楽曲批評が愛らしい。

 

様々なアプローチから書かれる批評がある。ただし、そこに取り上げられる対象はごく一部に限られている。(なぜ限られるかは、別の機会にきっと書こう)

 

よってたかって、アイドル論の恰好の対象にされる彼女たち、それは例えばPerfumeでありAKB48であるのだけれど、ここでは、ももいろクローバーZについて考えなければいけないという断定から始めてみよう。

 

ももクロがどのようなアイドルグループであるかというような説明は一旦省かせてもらうが、連続的な戯れ言を忍耐強く聞き入れてもらうことで、結果的にはその代わりとなるように努めたい。


アイドルを語るときに、内部と外部が存在することを念頭に置かねばならない、なんて言い方をすると少し仰々しいか。アイドル自身のパフォーマンスに言葉を与えることで彼女たちの魅力に言及するやり方がある。またアイドルが輝くためにはスポットライトが当たる場所が必要不可欠で、その舞台の作られ方やプロデュースの仕方を考察するやり方もある。

 

ももクロも同様に内部と外部を分けて考えることができるとして、前者に対する言葉として「女祭りで体調の悪い杏果のパートを全員でカバーするところは感動するよね」というものがあれば、後者に対しては「あーりんのアイドルとしての自己への言及性は小泉今日子の系譜を辿ることができるよね」というような言葉を与えられるかもしれない。

 

あるいは、もっと単純に彼女たちに「ももクロは全力なところが最高!」とか言ってみたり、「アウェーでも戦せるところがすごい」なんて調子で運営サイドに言ってみせることもできる。

 

こんな具合で、ももクロにも内と外がありますよという、ゆるりとした主張を終えたところで、今回の戯れ言は閉じようと思う。

 けっきょくのところ、ありとあらゆる問題は後回しにされていくのだ。

 

text byウミヒラ・コタン