漫才を考察するマンガ、べしゃり暮らしを読め

森田まさのりはヤンキーマンガの金字塔となる『ろくでなしBLUES』に、ドラマや映画もヒットした『ROOKIES』があり、マンガ読者の間では正直もういいだろお腹いっぱいと思われてる節があるが、この『べしゃり暮らし』を読まずにスルーするのは少しもったいない。

 本作はずばり漫才マンガだ。

原型となる二作の短編が掲載されたあとスタートし、現在はヤングジャンプにて隔週で連載継続中のこの作品は、「学園の爆笑王」を自称するクラスの人気者の上妻圭右と、おっとりしていてマイペースだが実は元プロ漫才師という転校生辻本潤のふたりが、漫才コンビでお笑い界の頂点を目指すストーリーだ。

 長い日本のマンガの歴史でも、実は漫才を題材にしたものは聞いたことがない。漫才マンガ誕生を阻んできたのは、ある大きな「壁」があったからだと、ぼくは思う。

それは、漫才的な笑いは文字媒体に乗りづらいという「壁」だ。いくら面白い漫談だろうが、文章にすれば口語ほど笑えない。今では吉本の“機関誌”やコメ旬など、おもしろい媒体が台頭しつつあるが、これまでお笑いジャーナリズムの芽がなかなか出なかったことは、実はここに起因するんじゃないかという気がする。

 この「壁」を『べしゃり暮らし』は、いかにして突破したか。

それはコロンブスの卵と表現していい。先にも書いたとおり漫才はマンガにとって新鮮な素材だが、『べしゃり暮らし』で描かれるのは、昨日の敵は今日の友となり、ときに挫折や苦悩を味わいながら成長していくという、少年マンガ好きにはたまらない王道の展開だ。そう、このマンガはあくまでも漫才的な笑いで笑わすギャグマンガではなく、漫才をとおしての青春マンガだ。「壁」は突破したんじゃなくて迂回したんですね。もちろん作中で漫才は漫才として描かれるが、それはあくまでも描写の域にとどまる。

しかもなにがいいって、青春マンガでテーマが「お笑い」である。ケンカに明け暮れるでもなく、野球で甲子園をめざすでもなく、ただただ学校に通っていたぼくのような人間からすれば、「教室で笑いをとる」ということは、何にもまして「生きがい」であったわけで、このマンガ序盤の高校時代の話は、感情移入するなと言われる方が無理である。

田作品特有のwell-made(=よくできた)なプロットも忘れてはならない。森田まさのりといえば、いま主流になっている「萌え絵」とは一線をかす劇画タッチの描写がトレードマーク、のようにみえる。しかし、見逃されがちだが氏のマンガの持味は、あくまでも話運びの妙だ。そのことは、氏が「まずプロットからやります。僕の場合それは映画の脚本のようなもの」(10巻著者コメントより)と明かしていることからもよくわかる。

このようにして、上質で安定した物語という「枠」の中で、何が描かれるのか。当たり前ながら漫才である。では漫才の何か?極限すればそれは、“相方”だ。このマンガは、他のどの分野のどんな存在にも代替することができない、この奇怪な「漫才コンビの相方」という存在についての長い長い考察なのだ。

近年、マンガは全体的に話が長くなっていく傾向にあり、このマンガも9巻の「この巻の終わりから、ようやく本編がはじまります」という著者コメントにはさすがにガクっときたが、気長に待とう。狂乱と興奮とともにM-1が幕をおろし、漫才からぼくらがいくぶん距離をとれるようになった今こそ、漫才とはなにか、相方とはなにかを、青春マンガとして堪能してみるのはどうだろうか。

 

text by いいんちょ